世界に生きるポケモンたちの命
ユアストーリーが賛否で盛り上がっている頃、私は甥っ子二人と【ミュウツーの逆襲Evolution】を見に映画館へ。
甥っ子二人は小学校高学年。ポケモンというよりは妖怪ウォッチって印象だったのだけど、意外と映画は全部見ているらしく、ポケモン映画の話や学校で流行っていること、好きなYouTuberなどで話が盛り上がった。
車や映画の座席の並び方で口論したり、お昼ご飯は何にするかでも口論したり。というか兄弟ってのはすぐバチバチするものなのかな。じゃれているだけなのだろうか…。
なだめながら。納得させながら。子供と言えど、もう立派に心と意志を持っている。二人で遊びだしたりして、上手に輪に入れたか自信はないけども、やりたいことは出来たのだろうか?二人は楽しんでくれただろうか?
また一緒に映画や遊びに行けると良いなぁ。
そんなことを思いつつ、本題の映画の感想を書こうと思います。
昔の映画をフルリメイク。私が見たのは小学生か中学生の時。理解しきれなかったものを理解することが出来たような、出来なかったような。
そういえば、昔の映画館はすごく緩かった気がする。田舎限定なのだろうか?
途中から入って、途中から出てとか当たり前のようにやっていたし、次の上映を立ち見で見るとかも許された。今では考えられないくらい緩かった。
…昔の話はまた別の機会にしましょう。
アニメーション的な話をすると、人間の動き、特に会話部分の固さが目立った気がした。アニメの印象のまま3Dにしたかったパターンだろうか。
とにかくディズニーやイルミネーション、ドリームワークスのような滑らかさはあまり感じない。その代わり?ポケモンの動きは滑らかだと思った。
ミュウツーが最強のポケモン兼トレーナーとしてサトシたちとバトルするシーンは、ゲームでもこんな風に出来たらなぁと思うはずだ。それだけポケモンの動きは生き生きしていた。
底辺アニメーターが何を偉そうにと言われそうなので、この話はここまで!
オリジナルとコピーの戦いを通して伝えたいものって、やはり争いは醜いもので、悲しさ、むなしさしか生まない。しかも飛び火して第三者に被害が及ぶ。よくある表現だけど悲しみの連鎖だ。
相手を思いやる、慈しむことで奇跡が起こるというのは少しぶっ飛んだ感じはするのだけど、争いに対する表現の1つだと思っている。
オリジナルだろうがコピーだろうが、みんなみんな生きているんだ、友達なんだ~。と、この世界に生きることを互いに認めあったポケモン達。
種族の違いや個性の違いはあっても、1つの命として同じように考える、認めあえるってすごいことなんだよ。ってのが、この映画のテーマなのかな。
解釈があってるかは謎。違ったら教えて下さい。
私たちの生きる世界は差別的だ。セクシャルマイノリティ、身体、精神、発達障害等…。名称としての区別なのだろうが、それが差別になっているのが現状だと思う。
未だ争いの最中なのだろう。何千年も前から、何度も争っているのに何も学ばない。相手を知ろうとしていないのか。
互いに認め、悲しむことなく生きていける世界になってほしい。子供達の世界のために、まずは知ることからはじめようと思う。